勝てるチームの法則。

VOL.257 / 258

本間 勝久 HOMMA Katsuhisa

1959年生まれ、東京都文京区出身
1981年にル・マン商会(現株式会社ルマン)に入社。語学力を活かしてマーチ社やラルト社、レイナード社、ダラーラ社の輸入代理店としてレーシングカーシャシーのエージェントに携わったほか、ミハエル・シューマッハをはじめとした外国人ドライバーとの折衝、アテンドも担った。2015年より有限会社中嶋企画へ移籍。NAKAJIMA RACINGチーム代表として全てを司る重責を担う。

 

勝てるチームの法則。

苛烈を極めるレースの世界に身を置いてはや40年
常にレーシングチームの運営を行い日本のレース界を見つめてきた本間勝久氏
近年では中嶋悟氏の元でNAKAJIMA RACINGを率いる大役を担う氏が語る
勝てるチームの法則とは

1984年、全日本F2選手権チーム・ルマン時代、スポンサーは伊・マルチィニ、ドライバーは鈴木利男氏。

レースの本場からの刺激

 私は東京の生まれでして、実家は自動車の販売店を営んでいました。物心ついた時は1960年代でしたから自動車なんてみんなの憧れでね、それが日常的に身の回りにあるわけだから自然と車好きになっていました。当時としては珍しく小学生の時にカートなんかもやらせてもらって。高校を卒業してからは英語も喋れないのに単身渡米し、ロサンゼルス郊外にあるデザインで有名な学校「アートセンター・カレッジ・オブ・デザイン」で自動車のデザインとエンジニアリングを学びました。その頃は自分でもレースをやりたくて、アメリカでフォーミュラフォードとかFF2000でサーキットを走っていました。アメリカ滞在時はロングビーチで行わていたF1アメリカGPを見に行ったり、全米各所へレースを見に行きました。スポーツカー(現在のWEC)のレースが人気でモータリゼーションが一番元気な頃、生活のすぐそばにレースがある、そんなアメリカでの良い時代でした。
 アメリカでの学生生活を終えたら、レースの本場であるイギリスに行こうと思っていたのですが、親から「一度くらい日本に帰って顔を見せなさい」と言われましてね(笑)。で、帰ってみたら「知り合いの会社が人材を募集してるから話を聞いてみないか」と父親の知り合いから会社を紹介されまして。トントン拍子で入ったのがル・マン商会(現株式会社ルマン)だったんです。

1990年ごろ、英国ケンブリッジ郊外にあるPi-Reserch社にて。Pi社は今では当たり前になったデータロガーの先駆的存在で、本間氏はその機器の代理店契約を結び日本のレース業界や自動車メーカーに販売していた。(本人最後列左から2人目)

エージェントとしての 仕事

 その時の社長が「時間があれば自分でレースをやってもいいよ」って言ってくれて、御殿場のファクトリーに自分のFJマシンも持っていたんですけど、仕事が忙しくなりそんな時間も無く、結局数回しか乗れなかった(笑)。当時のル・マン商会では英国のマーチやラルトなど海外のレーシングカーコンストラクターの輸入販売を手掛けていました。私はアメリカにいたこともあって英語も多少話せたので、そういったコンストラクターのエージェントとして重宝されました。その業務以外にも現在のようにレーシングチームのマネージメントも任されていたので、ビジネスの方もどんどん忙しくなり、やりがいもあったのでレーシングドライバーをやりたいという気持ちとは別にビジネスも面白くなって行きました。  1980年代前半、チームルマンでの私は今は亡き松本恵二さんや外国人選手のマネージメントをしていましたね。当時のF2は松本さんはもとより中嶋悟さん、星野一義さん、高橋国光さんなどそれはもうすごい選手達の全盛期でね、面白かった。

ミハエル・シューマッハとの出会い ~ ミハエルのデビューに 奔走

 それからバブルの頃になりF2はF3000へと名称を変え、チームルマンの体制も1台はラルトでドライバーはF1でも活躍したジョニー・ハーバート、もう1台がレイナードでロス・チーバーでした。‘92年にジョニーがF1に復帰するかもという話になっていて、テストが滞っていたんです。そこでラルトと私達でイギリスのノーフォークにあるスネッタートンというサーキットでテストをしようということになりました。
その時のメインテストドライバーはデビット・ブラバムだったんですが、ミハエル・シューマッハという若者も乗せてやってくれないかというオファーがあったので乗せたんですよ。ミハエルは前年度のF3でチャンピオンになるなど活躍していたので私も名前は知っていました。当時彼が21歳で私が31歳かな。そしてテストマシンに乗せてみたら、まぁ速かった(笑)。ラップタイムを見ていると確実に安定させててタイムを上げてくるし、ミスも無い。結局デビット・ブラバムにあっという間に追いついて、最終的には上回るタイムを叩き出してしまったんです。

 すぐミハエルを日本に呼んで菅生のテストで走らせてみたら、それでもやっぱり速かった。その頃は予選タイヤがまだあった時代なんだけど、彼は慣れない予選用タイヤをすぐに使いこなしたし、ブリヂストン(当時)の浜島さんにタイヤの使い方やくせをしつこく聞いたりしてね。若いけど色々と勉強熱心でしたよね。
 それで「レースにも出たいか?」って聞いたら「もちろん出たい」と。その頃はバブル時代と呼ばれていた頃だったので、スポンサーさんに「優秀なドライバーがいるから、もう1台出場の為の予算を追加で出してくれないか」って頼み込みました。スペアカーがあったとはいえ、もう1台出すのに費用が1千万円は軽く超えるのに気前よく出してくれたんですよ(笑)。
 当時はF3000だけでエントリーが30台以上いたから予選は2組に分かれていました。一つ目の組はうちのチームのロス・チーバーがポールを取って、もう一つの組の予選2番手がミハエルだったんだから驚きだよね。決勝はスタートでちょっと失敗したんだけど、中盤で2位に上がってリザルトはロス・チーバーとミハエルのワン・ツーフィニッシュ。ジョニー・ハーバートはそのレースではリタイヤしてちょっとしょげてましたね(笑)。ミハエルは次戦の富士も続けて出る予定だったんですけど、F1のジョーダンからオファーがあって急遽F1に移ってしまいました。その後の彼の活躍は皆さんご存知のとおりです。だから「あの時早く契約しとけば沢山違約金もらえたのにね」なんて今では笑い話で言うんですよ(笑)。

1983年、全日本F2選手権チーム・ルマン時代、ドライバーはスウェーデンのEje Elgh、鈴鹿サーキットにて。

 

優秀なドライバーの条件

 シューマッハ兄弟を初めとして過去にいろんなドライバーと一緒にレースを戦って来ました。
チームの成績が低迷していてもいいドライバーが来ると一気に変わります。普通のドライバーがマシンのポテンシャルの80%のところでアンダーだオーバーだナーバスだって言っていても、更に優秀なドライバーが乗るとそこを越えて100%まで持っていってさらにその上のレベルまでマシンを引き上げて走らせることができます。
 いいドライバーは速く走れるだけじゃなくて、的確に多くの情報を感じ取っていると思います。身体のセンサーが普通の人と違う。そしてそれを言語化してエンジニアやスタッフに伝えることができる。チャンピオンを取るドライバーはその点で、間違えなく優秀だよね、そして年間を通して精神面や速さが安定している。これは私の持論ですが、チャンピオンを取るドライバーは賢いし、ちゃんと周りが見えている、だからクラッシュも少ない。ダメなドライバーはいつも同じようにぶつかっている、自己中心的かな(笑)。あれは限界で走りすぎていて、余裕も無いからだろうね。そうすると事故率も高いですよね。いいドライバーは限界でのレベルが違う。普通のドライバーの技量の限界が100としたら、いいドライバーは同等の条件で70程度で走れる、だから30のマージンを持って走れる、つまり彼等が100で走ればさらに速くなる。長年いろんなドライバーを見たり感じて自分でチームをやっていてそう思うね。もちろんシューマッハ兄弟もそうだった。

タイミングを逃さない

 私は1980年代前半から長年レースだけの仕事をしてきました。強いレースチームを作るには優秀なドライバー、スタッフ、残念ながら資金が必要なのはもちろんですが、そのためにはいかに広い人脈を構築し、人と良好な関係を築くか、そして訪れるチャンス、運を逃さないことが大切です。
 例えば昔私が仕事でイギリスを訪れていた時、シューマッハ兄弟をマネジメントしている知人から「本間さん今どこにいる?」って突然電話が入ったんです。「今、オックスフォードにいるよ」って言ったら「明日会えるか?」ってシューマッハ弟と一緒にプライベートジェットで飛んで来ましてね、びっくりしました(笑)。その時はもうミハエルはF1でやっていて、弟のラルフの話でミーティングをしたいということだったんです。ミハエルがお世話になったからラルフも本間さんが面倒見てよって。ケンブリッジの郊外にある小さな飛行場の側でミーティングをして、その場で翌年から日本のフォーミュラ・ニッポンで一緒に戦う事を決めました。もちろんそれまでのラルフの活躍(ドイツF3での活躍やマカオGPでの優勝)は私も知っていましたから、日本でも活躍できるだろうと踏んでいました。実際ルーキーでありながらフォーミュラ・ニッポンの初代チャンピオンになりましたし、これもタイミングですよね。

F3000に初出場で2位を獲得した時のミハエル・シューマッハと本間氏

データロガーを日本に紹介

 また、先に紹介したデータロガーの話もそうです。ある日マーチ社の知人から「こういうものがあるからイギリスに見に来ないか」と誘われて行ったのがデータロガーの草分けPi-Reserch社でした。それから私たちがデータロガーの代理店契約を結んでね、Pi社を創設したトニー・パーネルと秋葉原に連れ立って、適合するPCを探し回ったりもしましたよ(笑)。当時のレース界はまだまだアナログで、ドライバーの感性を頼りに車輌作りをしていた時代です。だから最初は「それがなんの役に立つんだ」ってみんな懐疑的でね。でもひとたび活用方法がわかってくると、もうみんな飛び付きましたから。それからですね、レース界もメーカーも一気にコンピュータを使って解析するようになったのは。それも人と人との縁から始まった仕事です。

マネジメントの難しさ

 2015年より、以前からの知り合いだった中嶋悟さんのチームに入ることになったのですが、当時のチームは少し調子を落としていたんです。車を作り上げる過程においてミスが多いとテストしていても調子が上がらないし、走行距離もあまり伸びない。ドライバーもちゃんと練習できないからタイムも上がらない、というような負のスパイラルに陥りますよね。だからこそいい車を作れるようなスタッフィングがやはり重要になってくる。しかし、いいスタッフだけで固めればいいというわけでもありません。ドライバーも含め、いいスタッフにはそれ相応の給料を払わなければいけない、ではその資金をどうするのか、スポンサーをどう集め、どう納得させるのか。人材と資金のバランス、それがチームマネジメントの難しさでもあります。
私はマシンに乗るわけではないし、マシンを作るわけでもないけどチームをオーガナイズする立場としてチームを勝たせる責任を負っている。直接的にエンジニアリングやメカニックはしないがチームを強くするのが仕事なんです。でもチームを強くするというのは短期間でできることではなくて、人を育てたり入れ替えてみたり、一朝一夕にはいかない。だから忍耐強くなければいけない。レースにおける忍耐強い人とは、すぐに結果が出ないこの世界の中で、各々の責務を果たせるようコツコツと継続できる人。ドライバーもメカニックも賢い=スマートな頭脳を持っている人が優秀ですね。チーム造りは時間がかかる。気長はダメだけど短気もダメ、忍耐が必要。あと5年くらいしたら引退したいけど、その歳になってもまだやってるかもしれませんね(笑)。

  64号車を駆る牧野任祐選手

2020年スーパーフォーミュラに参戦するTCS NAKAJIMA RACINGのマシン

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